介護保険制度を中心とする行政情報、各地の市民活動団体の活動などを紹介しながら、みなさんとともに「市民福祉」を考えていくサイトです。

BF144 『江戸時代の老いと看取り』
BF144 『江戸時代の老いと看取り』

平均寿命は現代より短かったが、20歳まで生き延びれば「60歳以上の余命をもてるようになった」のが江戸時代。
高齢化率が15%を超える村や町も「全国に広く出現していた」し、農民も武士も老いても働いていた。
特に武士階級は70歳が隠居する基準で、「幕府高齢役人」リストによる最高齢は94歳だ。
弘前藩や仙台藩では、勤続60年以上という記録がある。
奥女中も定年がなく、古稀(70歳)を超えて働く人がいたという。
下級武士であれば「老後の保障は万全であったとはいえない」が、武士も奥女中も藩から「捨扶持」という年金に相当する支給があったという。退職金のような「後扶持」とか「隠居料」、住居を与えられることもあったという。
庶民の場合、跡取りがいれば家督を譲って隠居することができた。
だが、跡取りがいなければ、当主や主婦の座を降りることができなかったそうだ。

還暦(60歳)、喜寿(77歳)など長寿を祝う「儀礼や習俗」が広く定着したのも江戸時代。
諸藩では「養老式」や「年長祝い」など、藩士から庶民まで身分を問わず、高齢者と近親者を招いた祝宴を企画したという。
長寿者には、「老養扶持」というお米の終身支給もあったそうだ。
なかなか親切だったではないかと思うが、背景には、儒教倫理にもとづく「親には孝」をルール化することで、幕府や諸藩の秩序維持が意図されていたという

一番、興味のあった「看取り」は、基本的に在宅で、家族が中心的な担い手だった。
親子間で、相続と引き換えに扶養契約を交わすこともあったという。
そして、現代ともっとも際立つ違いは、「家長が親や祖父母の老いを看取る責任をおっていた」ことだ。
特に、当主となる男子は介護において、食事や介助などに主体性を発揮することが、庶民にも武士にも共通して求められた。
当時も介護ハンドブックが存在し、貝原益軒が82歳の時に書いた『養生訓』最終巻の「養老」の項では、①老親の心の安定、②住まいの環境への配慮、③食事のととのえ方がについて、介護の方法が記述されているそうだ。
心得のなかでも、精神面の介護が重視され、「親の心の平安」を保つよう向きあうことが指導されている。
医師の常盤貞尚の『百姓分量記』は、排せつ介助がポイントだ。

18世紀以降、諸藩の道徳強化が目的の「善行褒賞施策」のなかで、「介護の実践」は重要な位置を占めていく。
奨励するのだから、当然、「子による親の看取りを勤務に優先」することになり、武士の場合、終末期には介護休暇が認められていた。
幕府は「看病断(かんびょうことわり)」、東北から九州までの各藩は「看病引」や「付添御断」などの名称で、申告制度を設け、介護休暇を認めていた。現代でも、同じ制度でも厚生労働省と地方自治体で呼称が違うのと似ていて、中央と地方の微妙な違いの主張は江戸時代からあったのか?
介護の対象には、実父母、養父母の区別はなかったという。ただし、正妻でない実母には認められない事例もあったという。
介護休暇はひと月未満が多いようだが、当主や家族だけでなく親族にも「看取りを共同で担う扶助関係」があり、交代で休暇を申請して長期介護に対応していたそうだ。
そして、長寿者への褒賞と同じように、介護家族に現金を支給する「善行褒賞」も広がっていった。今でも、自治体によっては年10万円くらいの「家族手当」がある。

だが、やっぱり所得格差はある。
庶民をみれば、富裕層は介護に専念できるが、経済力も低い中下層の家族は「仕事と介護」の両立を迫られ、長期介護になれば「小経営の家族の生活を逼迫させた」。
また、下層階級では、結婚できない男性が多かったため、「跡取り息子に親の扶養介護が一任されがち」だったそうで、現代の「8050問題」に一脈、通じるものがある。

武士や富裕層は、住み込みの介護人を雇う「介護の外部化」をはかることができたことや、単身高齢者の看取りには、五人組や菩提寺など「地域社会」が担当したという報告も興味深い。
ただし、人の流出入の激しい「都市の下層社会」、「地方の城下町や宿場町」では、「相互扶助の地縁ネットワーク」の形成は困難で、貧困や病気を苦にする自殺者も多かったという。

江戸時代と平成・令和の介護事情の共通点と違いについて、あれこれ考えさせられた。
また、とうてい読めるとは思えない古い資料を読み込んで、わかりやすく説明してもらえるのが、とてもありがたい一冊。

(柳谷慶子著/山川出版社/800円+税)